2015年12月20日

《推薦圖書》 「私の漢字教室」石井勳著 (黎明書房 昭和三十六年七月)

著者獨自の新しい漢字教育法による實験報告と新方式の提案を内容とする。
1 幼兒にとつて漢字は假名より親しみやすい。
2 漢字は早く提出するほど習得しやすい。
3 漢字は數多く提出した方が記憶しやすい。
といふ、この三原則の提示であつて、これは在來の漢字教育の常識を根抵から覆すものであり、しかもそれが見事に立證されてゐる。《萩野貞樹》

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2015年11月03日

《推薦圖書》「私の國語教室」 sc恆存著 (新潮社 昭和三十五年十二月)

著者は昭和三十三年十月から五囘にわたり季刊雑誌『聲』に「私の國語教室」を連載した。それに後一章を加へて三十五年十二月に刊行された。
多少とも國語問題に關心のある者には必讀の文獻であり、新潮文庫(昭和五十年)、中公文庫(昭和五十八年)、文春文庫(平成十四年)にも收められ、こんにちも繰り返し廣く讀まれてゐる。
第一章、「現代かなづかい」の不合理
第二章、歴史的かなつかひの原理
第三章、歴史的假名遣習得法
第四章、國語音韻の變化
第五章、國語音韻の特質
第六章、國語問題の背景
の諸章から成り、時局的發言から音韻に關する新しい見解の提唱まで、徹底した議論が展開されてゐる。文庫版には増補數篇が追加された。
なほ本書は、第十二回讀賣文學賞(批評部門)を受賞した。《萩野貞樹》
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2015年10月12日

「てんてん−日本語究極の謎に迫る」 山口謠司著 (角川選書)

「てんてん」とは濁點のこと。ヨーロッパ語では、「か」はka、「が」はga。kとgといふ全く別の文字を使つて表記する。しかるに、日本語は同じ文字に「てんてん」をつけるだけで別の發音になる。「てんてん」によつて、元の文字の音價を變へるのである。
 なぜ、濁音を表す別の文字が出來なかつたのか。これが「日本語究極の謎」だといふ。
戰前の「五十音圖」にはC音だけしかなかつた。「ガ行」「ザ行」などの濁音は五十音圖の枠から除外されてゐた。濁音はC音の補助的なものと考へられてゐたからである。「平安時代前期、〈かな〉が最終的に形作られていく段階で、漢語の中に現はれる濁音も意識されるようになってきた」と氏は述べる。それまでは意識がなかつたから、濁音を表はす文字は作られなかつたのである。この日本語の謎を解明して行く手法には、シャーロック・ホームズにも似た、氏の見事な推理力が窺はれる。
そして、私のやうな國語の知識が生半可な人間には、氏が整理してくれる國語の歴史や、漢字傳來のプロセスは甚だ役に立つ。
「ハ行轉呼音」(「思ふ」をなぜ「オモウ」と讀むか)は知つてゐる人が多いだらうが、ではなぜ、「てふてふ(蝶々)」が「ちょうちょう」と讀まれるに到つたかを論理的に説明できる人は少なからう。萬葉の時代には、「蝶」は「ディエップ」と發音され、萬葉假名では「代布」の字が宛てられてゐたといふのも興味深い。
もちろん、このやうな現象は、日本が漢字を受け入れた爲に生じたものである。日本の漢字の音讀み、特に漢音は、現代北京語とは相當に違つてゐて、香港などの南方音に近いと言はれるが、どうしてさうなつてゐるのかも本書は見事に解明してくれてゐる。
現代中國語には聲調(四聲)といふ名のアクセントがある。「第一聲」「第二聲」「第三聲」「第四聲」の四つに分かれてゐる。漢文の「平上去入」はこれときちんとは對應してゐないが、聲調の古いタイプであると言つても大過はない。
この聲調を表記する方法を古代の中國人は考へ出した。「漢字の四隅に、『○』というアクセント記号をつけて表した」のである。これを「聲點(しょうてん)」「四聲點(しせいてん)」と言う。「唐代に入ってから本を読む際に、この声点がつけられるようになったという」。
 なぜ、中國人にとつて、母語の表記に「聲點」が必要だつたかといへば、同じ漢字が意味によつてアクセントが違つてゐたからである。「『教』は『平声』の場合は『教えること』であるが、『去声』の場合は『教える』あるいは使役を表す動詞になる」。そこで、區別の必要が生じたのである。
この「聲點」が、現代の日本語の濁音の「てんてん」の源だといふのである。
日本語の成長に貢獻した人として、氏はまづ空海を擧げる。
平假名・片假名を作ったのが空海だといふのは誤解であり、空海はそれよりも前の時代の人だ。しかし、空海の遺した研究が、後世の日本語に大きな影響を與へたことは間違ひない。氏は空海の功績を存分に評價し、空海がサンスクリット語(梵語)といふ表音文字による表記法に觸れたことが、萬葉假名の存在と相俟つて、平假名・片假名の發明につながつたのだといふ。
本書は、專門家・素人を問はず、讀者を堪能させてくれる名著である。專門家にとつては、今までの知識の缺陷を埋めてくれる新發見の書であり、素人にとつては、國語学への導入の書である。學生諸君は、理科系など專門外であつても、本書を繙けば、數學の論理とは一味違ふ、言語の論理といふものに目を開かれる思ひがするであらう。《高田友》
posted by 書評 at 17:41| Comment(0) | 高田友