2016年06月07日

「ほんとうの敬語」 萩野貞樹著

  誰もが關心を持ちながら、一向に理解できない敬語理論。本書はこれを明快に解き明かしてくれます。現代の敬語の混亂は、國語審議會の責任が大きいのですが、その中でも特に、昭和二十七年に文部大臣に建議した「これからの敬語」(金田一京助氏の起草?)が深刻な問題を孕んでゐたと著者は言ひます。
 これまでの敬語は主として上下關係に立って發達してきたが、これからの敬語は、各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない
 なるほど、かういふ平等イデオロギーが背景にあつたのかと首肯されます。
 著者は、このやうな平等イデオロギーに反對し、敬語をかう定義します。
 (敬語とは)人間のなんらかの意味の上下關係の認識を表現する語彙の體系である。
 政治とも道徳とも平等とも無關係な、何といふ分かりやすい定義でせう。
 著者は、敬語を「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つに分類します。そのこと自體は世に流布する敬語論と違ひありません。
然るに、前述の國語審議會(平成十三年に芽出度く潰れました)の後身ともいふべき「文化審議會國語分化會」は、平成十九年(二〇〇七)に、「敬語の指針」の答申を提出し、敬語には五つの種類があると主張しました。謙讓語を「謙讓語T」と「謙譲語U(丁重語)」に分け、丁寧語を「丁寧語」と「美化語」に分けるといふものです。
 やたらに細かく分類する人は、簡潔な論理でまとめることができない人です。この五つの分類などはまさにそのクチですが、著者はこれを斥けます。そして、敬語理論はすべて、「上下關係」で説明できるとしてゐます。
 第一の「尊敬語」とは「話し手と話題の人物の上下關係だけに從ふ」ものです。「社長が來週うちにおいでになるよ」といふときは、「おいでになる」といふ尊敬語は、社長の方が話し手(私)よりも目上であることを示してゐます。
 著者は、他の學者や書物を小気味よく叩いてゐます。小學校六年用のさるヘ科書は、尊敬語を「相手や、相手に關係している事がらを敬って言い表す言葉づかいです」と言つてゐますが、著者はこれを一刀兩斷に切つて棄てます。
 「先生がいらつしやつたとき、お前はどこにゐたのだ」といふとき、尊敬語は「いらつしやる」ですが、どうしてこれが、相手(聽き手)に對する敬意を表してゐるはずがありませう。
 「謙讓語」は、「話題中に現れた人物同士の間の上下關係」だけを問題にしてゐるのです。世間の敬語の本には、「謙讓語」は「話し手側は動作を低めて言うことで相手への敬意を表すもの」と書いてありますが、著者は反論します。
 校長先生が生徒に向つて、「そのノート、擔任の先生からいただいたの?」と言ふときには、「いただく」が謙讓語ですが、決して校長先生が自分の動作を低めてゐるわけではありません。この「いただく」は、擔任の先生が、生徒よりも目上であることだけを示してゐるのです。
 三つめの「丁寧語」は、「聽き手に對してのみ敬意を表現するもの」です。
 「あの野郎がやりやがつたんです」といふのはののしりの表現ですが、「です」が使はれてゐるのは、聴き手が自分(話し手)よりも目上であることを示してゐます。生徒が先生に、友達の惡事を訴へてゐる場面を想像して下さい。
 このやうな理論を著者は見事な圖解で説明してゐます。他の學者の本にも、似たやうな圖解が載つてゐますが、この著者の圖解ほど簡潔明快なものは見たことがありません。著者の理論そのものが簡潔明快だからです。
 この圖解に附いてゐる解説の中で一番面白かつたのは、「おほす(仰す)」です。「広辞苑」では、「おほす」を「おっしゃる」の意味の尊敬語だとしてゐますが、さうでない、と著者は言ひます。なんと、「謙讓語」だといふのです。「くださる」と同樣に、上位者が下位者に物を言ふときに使ふからです。目から鱗が落ちるやうな素リらしい分析です。だからこそ、尊敬語として使ふときは、「おほせらる」と尊敬の助動詞を附けなければならないのです。
 「れる・られる」を尊敬語として使ふな、といふ著者の主張も注目を引きます。自發なのか、可能なのか、受身なのか分からなくなるからです。そもそも、尊敬語として「れる・られる」が頻繁に用ゐられるやうになつたのは、前述の國語審議會「これからの敬語」の中で、この「れる・られる」を尊敬の敬語の中心に位置づけたことから始まつたのだといふことです。
 著者の辭書批判も痛快です。
 ある辭書は「金魚に餌をあげる」を正しい言ひ方だとしてゐます。しかし、「あげる」は丁寧語ではなく、謙讓語なのですから、上位者にしか使へません。これを「上品な言葉遣いで自分の品位を保つためのもの」などと説明する辭書があります。著者は「辭書の劣化」といふ辛辣極まりない言葉で批判します。
 一番我が意を得たりといふ思ひにさせられたのは、次の一節です。
 言葉といふものはできるだけ變形しないやうに「保守」されなければ役に立たないものとなるからです。從つて、言葉の問題を扱ふ人は必ず「保守的」でなければなりません。
 言葉といふものは、一旦變つてしまつたら、なかなか元には戻りません。
 この美しい日本語といふ言語を與へられた我々には、國語を守るといふ義務が課せられてゐるのではないでせうか。
 それに關聯して、著者は、家庭内での言葉遣ひの重要性を説きます。母親を「おめえ」と呼ぶ家庭では、健康な母子關係が破壞されてゐますが、母子關係が破壞されたから「おめえ」と呼ぶやうになつたといふよりは、「おめえ」と呼んだからこそ反抗心が燃え上つたといふのです。
 なるほど、言語が人間の心にどんな重要な作用を及ぼすかを考へさせるヒントでもありました。(高田友)
posted by 書評 at 20:58| Comment(0) | 高田友

2016年05月24日

「語源から古典へ 古典への誘ひ」 土屋道雄著 笠原書房

よくぞ出たと思はせる名著です。 簡單にいへば、「語源重視の語彙集」といふべきでせうか。三百ページ弱の、ふつうの單行本の體裁なのですが、ほぼ二千語の單語を收めてゐます。そして、ここがポイントですが、重要な單語については、その語源を解説してゐるのです。私は學生時代に「新言海」の語源説明に惹き付けられ、讀み耽つた記憶がありますが、老境に達して、若き日の感動をこんなにも甦らせてくれる書に出遭はうとは思ひませんでした。
 何よりも素リらしいのは、かな文字一つ一つに、それぞれ言語の要素となる意味が含まれてゐることを明らかにしてくれてゐることです。
 漢字を見れば分かることではありますが、たとへば、「ね」には「子・音・寢・根・値・嶺」などの意味があります。それが他の音(假名)と合して、さまざまな單語を作つて行きます。「葱(ねぎ)」はもともとは「き」だつたのですが、地中の白い部分を食することから、「根」がついて、「ねき」になり、濁つて「ねぎ」と呼ばれるやうになつたとのこと。
 「み」は「三・巳・水・身・實・海・靈・御・見・深」であり、「水」の意味の「み」が動詞化して「みつ(滿)」が生まれました。水は器に隙間なく一杯になるからです。さらに、「み(水)」は「みつ(滿)」から轉じて「みづ」といふ形に變りました。木の「みき(幹)」は「身木」だといふことです。木の本體といふわけでせうか。「みさき(岬)」は「海」の「み」に「先」がついたもの。
 我々は高校生の頃、「かんなづき(神無月)」は「全國の神樣が出雲に集まり、他の場所にはゐなくなるから」さういふ名がついたのだと習ひましたが、實はさうではない、と本書はヘへてくれます。一年の收穫を神に供へ感謝する月なので、「神の月」が訛つて「かんなづき」になつたとのこと。また、「師走」は「としはつ(年果)」で、師が走るわけではないのです。考へてみれば、「師」を「し」と讀むのは字音(音讀)ですから、大和言葉の語源であるはずはありません。「むつき(睦月)」から始まつて、他の月の名も、丁寧に語源を説いてくれてゐます。
 鳥の名を見てみると、「鷹」は單純に、高い所を飛ぶから「高」であり、「燕」は元來は「つばくらめ」。翼が黒い所から來てをり、「め」は「小さいもの・愛らしいもの」の意だといふのです。
 日本國は「言靈の幸ふ國」と言はれますが、本當に、一つ一つの音に、靈魂が籠つてゐるやうに思はれて來ます。「日本語は世界で一番美しい言語だ」といふと、反撥する人がゐます。「國語は自然に憶えるのだから、學校でヘへる必要はない。どうせ將來は英語に統一されるのだ」などといふ意見もあります。もし、本當に「將來は英語に統一される」ことが避けられないのだとしても、少しでも、その日の到來を遲らせるやうに、國語への愛情を育てる必要があるのではないでせうか。
 土屋氏は、本書を「歴史的假名遣ひ」で書いてゐます。漢字が新漢字を使つてゐるのは些か殘念ではありますが、若い人が(若い人に限りませんが)正漢字を讀むことが出來ないといふ現實がある以上は仕方のないことです。
 語源を研究するためには、歴史的假名遣を使はなければならないことは明らかです。
 「ゑ」には「にこにこする」といふ意味があります。だから「笑む」は「ゑむ」なのです。女性の名で、「咲」を「ゑみ」と讀む例がありますが、「咲」の字は、中國語では、「ほほゑむ」の意味だからです。「醉」の假名遣ひは「ゑふ」ですが、本書は見事にその理由を解明してくれます。人間は醉ふとにこにこするから「ゑ」が使はれるのです。これを、「えふ」や、まして「よう」と書いていいものでせうか。前述の「水」も、「みず」ではなく「みづ」だといふことはよくお解りになつたことでせう。
 國語が輕視される、こんな時代だからこそ、國語の美しさを分からせ、日本に生まれてよかつたと感動を味ははせてくれる書が必要なのではないでせうか。(高田友)
posted by 書評 at 14:49| Comment(0) | 日記

2016年04月13日

「ん」 山口謠司著(新潮新書)

どう發音してよいかわからないやうな本の題名だが、そのゆゑか、最近新聞のコラムなどの題名になつてゐるのが散見されて面白い影響を及ぼしてゐるとわかる。尤も、服部四郎博士に「『ん』について」といふ論文のあることが本書に紹介されてゐる。この服部博士はひとの發音を正確に聞き分けることに定評があり、「ン」の發音に十種類ほどあると言はれてゐたさうだ。このことに關連して、本書では「ん」は舌内撥音の〔n〕、喉内撥音の〔Ŋ〕、唇内撥音の〔m〕、の三種類に分類されてゐる。
著者の博搜により空海以來この「ん」一語に關心をもつたり氣に懸つた人の名が三十名も擧げられてゐることからも、この音が日本人の語感に、ひいては日本の文化にかかはりの深いことが傳はつてくる。
空海が始めて本格的に梵字悉曇學に取組み、古代印度人の氣づいてゐた論理的な言語構造を體得したことはその後の日本に大きな影響を及ぼしてゐる。眞言宗が國家から公認されたときに空海は、眞言僧として學ぶべき科目にユニークな「聲明業」を加へてゐた。これはいはゆる音樂の聲明といふより、梵字悉曇の學であつたといふ。古代印度のサンスクリットの學習を必修としたのである。そこから五母音と調音點とのマトリックスによる五十音圖が導きだされたが、カタカナ文字が出てくると「ン」はその表外に置かれて、ここに最初の「ア」と最後の「ン」により「阿吽」が成立つやうになつた。
一方で「ん」は、古くから實際にはかなり多くの單語の中で發音されてゐたにも拘らず、枕草子にも指摘されたゐるやうに汚い音とされ、鴨長明は喜撰を「きせ」と書き、撥音「ん」を捨てて書いたとする。そこで著者は、「ん」は言語としての音であると同時に、リズムを整へるための役割をはたしてゐるのだと言ふ。鳶と書いて「とんび」と讀む。そのやうな考察から「いろは歌」の系列は、日本人の情緒を維持する役目を果し、一方「アイウエオ」は論理的な體系の世界であり、書かれない「ん」は、その中間に位置し、イエスであるかノーであるかを保留してリズムに從ふ。もしも日本語に[ん]がなくなつたら、われわれは日本語のリズムを失ひ、情緒とシステムを繋ぐ糸を斷つて、日本のしつとりとして深い文化を根柢から崩壞させはしまいかと警告する。
論理と感情といふ單純な二元論では割切れない日本語の特性が「ん」を通して捉へられてゐるところは、相補的なDNAの二重螺旋構造を想起させて興味深いものがある。(谷田貝常夫)

posted by 書評 at 15:00| Comment(0) | 谷田貝常夫