2016年09月01日

「日本語が亡びるとき」水村美苗著 筑摩書房

著者は言語を『普遍語』、『國語』、『現地語』と言ふ三階層で捉へてゐる。『普遍語』は英語の"universal language"に該當し、日本語では「世界語」と言ふ表現が落ち着く。『國語』は、英語の"national language"に該當する。「國民國家の國民が自分達の言葉だと思つてゐる言葉」で、人々が巷で使ふ『現地語』"local language"が、高級な諸々の價値を擔ふ『普遍語』の翻譯を通じて研ぎ澄まされ、知的・倫理的・美的な面で『普遍語』と同じレベルで機能するやうになつたものである。
我々が無意識に使つてゐる『現地語』である「日本語」は、『國語』でもある。著者は、『普遍語』としての英語の擡頭(言語學的には何の必然性もないが、英米の力と、そして、インターネットの普及期に頭一つリードしていた偶然による)の時代に、「日本語」は『國語』としての側面が大いなる危機に直面してゐると警告し、憂へてゐる。
「英語の時代」になつて、英語教育に對する方針は原理的には@『國語』を英語にしてしまふことA國民の全員が、バイリンガルになるのを目指すことB國民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと、の三つがある。日本が必要としているのは、世界に向つて、一人の日本人として、英語で意味のある發言が出來る人材である。交渉の場で、堂々と意見を英語で述べ、意地惡な質問には諧謔を交へて切り返せる人材である。著者は當然のこととしてBを推す。
文部省は明治の頃から音韻文字の採用を基本方針として、?字を排除し、假名文字にするか、ローマ字にするか得失を調査させてゐた。良識ある國語学者や文學者が反對し、?字假名交じり文に慣れた國民も眞劒に受け取らなかった。所が、戰後GHQの占領下で、?字の全面的な廢止が政府決定され、實際に廢止されるまでの、當面使用される?字として一八五〇字の「当用漢字表」が定められ、教育、公文書、新聞等のマスメディアで使はれる字の數が制限されるようになつた。このやうな動きに反對する聲が漸く出て來たのは、敗戰から十數年經つてからである。
昭和三十三年(一九五八年)には、後に名著とされるsc恆存の「私の國語教室」が連載され、昭和四十年(一九六五年)には、國語審議會會長が、初めて、日本語の表記方法は「漢字假名交じり文」であることを前提として審議を進めることを記者會見で發表する。漢字が殘つたことは「表音主義者」の敗北を意味した譯ではなく、「傳統的かなづかひ」を「表音式かなづかひ」に改めると言ふ小さな勝利を彼等は収めた。
sc恆存の「私の國語教室」には、「表音主義」が日本語にとつて合理性を缺くものであり、「表音式かなづかひ」が、いかに日本語を混亂させたかが語られてゐる。
「私の國語教室」の最後の一言、「なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか」が、胸に迫る。sc恆存のような人が嘆くのは、改惡の根底にある「表音主義」が、究極的には、文化そのものの否定につながるからである。
加藤 忠郎(かとう ただを) (公財)日本發明振興協會副理事長
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2016年03月12日

東京セブンローズ 井上ひさし著

このやうに面白い本を讀んだのは久し振りのことだ。
友人に紹介されて讀んだが、久しぶりに痛快かつ面白い本だつた。小さい活字で七八〇頁と言ふ大部ながら、數日で讀了した。著者の井上ひさしが、實在の日記と覺しき資料を發見し、これを膨らませながら日本の戰後の社會がどのやうに生れたかと言ふこととGHQが日本語を破壞しやうとしたのを「東京セブンローズ」と言ふ七人の美女がそれを阻止したと言ふお話。この小説は平成に入つてから出版されたにも拘らず、正漢字、正假名遣ひで書かれてゐる。この書評もそれにならつて正漢字、正假名遣ひで書く。

日記は根津に住んでゐた偏執狂的に日記を書くのが好きな團扇屋の主人が書いてゐて、戰時中のB29の空襲が續く東京で庶民が如何に暮らしてゐたか、戰後は如何にしぶとく生き殘つて來たかを實にリアルに描いてゐる。そんなことがあつたのかとは知らなかつた一例を示すと、戰時中は紙不足のために、新聞を複數購讀してゐる家庭は、それをどれか一紙にするやう通達があつたとか、戰後では誠文堂新光社と言ふ出版社が戰後すぐに出した「日米會話手帳」と言ふ本が、發賣から半月で二〇〇萬部を超えたと言ふ話など。細い所は事實に則つて書かれてゐるのだらうが、戰後團扇屋の主人が警視廳文書課の雇となり、ガリ版を切つてゐた時に讀んだ地方からマッカーサー元帥宛に出された手紙の中身などは井上ひさしの創作に違ひない。井上ひさしが今村忠純氏との對談で「細部は眞實だが、全體を見ると嘘と言ふ、僕のいつものやり方です」と言つてゐたさうだが、眞實と嘘の境目が分らないやうに實に巧く書かれた小説である。

戰時中は「鬼畜米英」と言つてゐたのに戰後は「アメリカさん、アメリカさん」と態度がころつと變つてしまつた日本人を見て、團扇屋の主人は自分はさう簡單には變はらないとその態度を通さうとするが、妻や娘からは馬鹿にされてしまふ。自分の娘二人も入つてゐる東京セブンローズは進駐軍の將校に春をひさいでゐる七人の美人達だが、變則的な美人局をアメリカからやつて來た教育使節團のキーマン達に仕掛け、日本語のローマ字化を阻止する。この國語改惡問題の經過の史實を紹介して、この書評を終へることにする。

文部省は明治の頃から音韻文字の採用を基本方針として、漢字を排除し、假名文字にするか、ローマ字にするか得失を調査させてゐた。良識ある國語学者や文學者が反對し、漢字假名交じり文に慣れた國民も眞劒に受け取らなかった。所が、戰後GHQの占領下で、漢字の全面的な廢止が政府決定され、實際に廢止されるまでの、當面使用される漢字として一八五〇字の「当用漢字表」が定められ、教育、公文書、新聞等のマスメディアで使はれる漢字の數が制限されるようになつた。このやうな動きに反對する聲が漸く出て來たのは、敗戰から十數年經つてからである。昭和三十三年には、後に名著とされる福田恆存の「私の國語教室」が連載され、昭和四十年には、國語審議會會長が、初めて、日本語の表記方法は「漢字假名交じり文」であることを前提として審議を進めることを記者會見で發表する。漢字が殘つたことは「表音主義者」の敗北を意味した譯ではなく、「傳統的かなづかひ」を「表音式かなづかひ」に改めると言ふ小さな勝利を彼等は収めた。福田恆存の「私の國語教室」には、「表音主義」が日本語にとつて合理性を缺くものであり、「表音式かなづかひ」が、いかに日本語を混亂させたかが語られてゐる。「私の國語教室」の最後の一言、「なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか」が、胸に迫る。福田恆存のような人が嘆くのは、改惡の根底にある「表音主義」が、究極的には、文化そのものの否定につながるからである。
(加藤忠郎 かとうただを<公財>日本發明振興協會副理事長)
 
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2015年08月20日

「名文と惡文」 萩野貞樹著 (日本教文社)

この本自體も蓋し讀むべき「名文」の範疇に入るにやあらん
名文を書くつもりはないが、どんなことが書かれてゐるか興味があり、讀んでみた。冒頭、丸谷才一氏の『文章讀本』の紹介があり、「名文を讀め」、「ちよつと氣取つて書け」の二つに文章の極意は尽きると著者萩野貞樹は言ひ切つてをり、それを信じて、讀み進めたが、なるほど、その通りだつた。
當然のことながら、それでは讀むべき「名文」は何かと言ふ問題が浮上する。丸谷才一氏は、詰まらぬと思つたものは駄文で、ひつそり埋もれてゐる文章でも、敬服して陶醉すればそれは名文となる、と突き放した言ひ方をしてゐるが、人によつて、人生觀も知識も讀解力も違ふのだから、それが正解なのかもしれない。

その後、著者による名文に關する記述が續く。山本夏彦の「辛口エッセー」、起承轉結、平家物語に見られる列擧・畳みかけの醍醐味、「感情の投げ出し」だが心に滲みる金子光晴を悼んだ草野心平の弔辭など。
一章を設けて「文章と人柄」について書いてゐる。オスカー・ワイルドは男色法を犯して牢獄に投ぜられたが、名作『獄中記』を書いた。瀧澤馬琴は七十を過ぎて息子の妻女と肉慾の日々を過ごし、性甚だ狷介で傲慢で強情で、葛飾北齋や山東京傳等と常に不和を醸し爭つたが、『八犬傳』、『弓張月』等は傑作である。太宰治、谷崎潤一郎、志賀直哉、葛西善藏、三島由紀夫、倉橋由美子、阿部公房等にしても、心温かく、人柄圓滿、親しみ易く、近づき易く、清く正しく、明るく素直で正直で、眞つ直ぐでカラリとして、と言ふ人達であるとは到底思へない。しかしその文章はあくまで名品である。

冒頭、文章の極意の二つ目に「ちよつと氣取つて書け」とあったが、「氣取りといふこと」の章がある。「ちよつと氣取つて書け」とは、下手に氣取るな、わざとらしさは避けよと言ふことである。氣取るための材料が一切無くして妙に氣取つたのでは、出來たものが見るもおぞましいものになる。ちよつと氣取るためには古來の名文を徹底的に讀むことを當然の前提とする。多くの參考書類が口を揃へて「氣取るな」と言つてゐるのには大いに異議があるが、さうでも言はなければ仕方が無い實態があるのもまた確かで、「氣取るな」は、今のところ一應無難な助言と言ふことになる。醜怪で、惡しき氣取りの典型とも言ふべき、朝日新聞のインタビュー記事が紹介されてゐる。新聞記事特有の極端な名詞止め、極端な短文、極端な改行。これらは先輩記者に教へ込まれた作文法で、見事なまでにグロテスクな眞似の跡である。もうひとつ「傑作」が紹介されてゐる。例のサンゴ礁への落書き捏造のときの朝日新聞の記事だが、捏造記事の記念碑的存在は別として、思い入れたつぷりの感傷性、身振りの大きな氣取り、恥づかしげも無い正義感、惡を懲らす黄金バット、衆生教化の使命感、同胞を憐れみ嘆く殉教者、と言つた趣。この種の気味の惡い氣取り文は、新聞では何十年も前から常套となって殆ど變化の兆しも無い。
一方で、詠嘆の無い爽やかな鳥飼玖美子氏の書いた「岡田嘉子さんの日本語」と題するエッセーが紹介されてゐる。そこには批判はあるし、その批判は相當厳しいと言へるものだが、我一人高しとするやうな思い上がりは微塵もない。僅かな見聞から途方もない文明批評をでつち上げやうとするごとき氣負ひが無い。感傷が無い。芝居氣が無い。大きな身振りが無い。受け狙ひの「正義感」など無い。同感を強要するごとき圖々しさが無い。一口に言つて、下手な氣取りが全く無い。新聞美文の特徴が、薬にしたくても見當たらない。もうそれだけで大変な美質と言つてよいと、べた褒めである。「ないもの」を指摘しただけでは特徴を言つたことにはなるまいと、「あるもの」も列擧してゐる。嚴しい批判である。見事な説得力である。主人公への親愛感であり、素直な感受性である、と。著者のこの文章自體、列擧・畳みかけの醍醐味がある。なお、新聞美文に毒されてゐない新聞コラムの例として平成元年九月三十日の「産經抄」が紹介されてゐる。

殆どの文章指導書は、一つ一つの文を短く書けと言つてゐる。短文で簡潔に書けと言つてゐる。「長文は惡文である」と章まで立てて論じてゐる本もある。かう言ふ妙な事態になつたのは、良い文章の條件として分かり易さ、易しさ、簡潔さ、齒切れ良さと言つたものが強調されすぎたせいだらう。この種の指導法は實に完全な誤解の上に立つてをり、重要な事實を完全に見落としてゐる。つまり、短文にすれば簡潔で齒切れのよい文が出來ると言ふ誤解に立ち、短文は文を却つて感傷的な獨り善がりのものにしがちであることを見落としてゐる。短文の缺陷が露骨に出てゐる、平成二年三月二十五日の「天聲人語」が紹介されてゐる。この文章は小學校三年生用の教科書の一文あたりの平均字數より短く、その短さのせいで簡潔から遠ざかつてしまつてゐる。

著者は、戰後の現代假名遣ひの内閣告示の影響で、出版社が歴史的假名遣ひで書かれた作品をやたら現代假名遣ひに改竄してしまふ弊害を述べてゐる。金田一京助博士が戰前に著した國語に關する著書が現代假名遣ひに書き換へられてしまつたため、日本語として全く意味が通じない珍妙なものになつてしまつた例が擧げられてゐる。出版社側の改竄の根拠は、昭和二十一年十一月の内閣告示「現代かなづかい」の「まえがき」にあると思はれる。

一.このかなづかいは、大体、現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したものである。
一.このかなづかいは、主として現代文のうち口語体のものに適用する。
 一.原文のかなづかいによる必要のあるもの、またはこれを変更しがたいものは除く。
(原文のママ)
出版社は「原文の假名遣ひに從ふ必要のあるものではない」と判斷し、「變更しがたいものではない」と判斷したのだらう。しかし、「まえがき」にある「原文」は現代假名遣ひ施行後に新たに書かれる口語文を指すのであつて、既に書かれ印刷出版されてゐる?外、漱石、芥川、また橋本、柳田、金田一の類を指すものではないと解釋すべきだらう。この後、出版社の無原則な書き換へ方針、書き換へ擔當者の見識の無さ等で、改竄された事例がいろいろ紹介されてゐる。書き換へ出版が盛大に行はれてゐるが、原文は高價な全集ものなどにはいくつか殘つてゐるが、文庫で讀まうとしても先づは絶望的である。正しさを追求しやうと思つても、貧乏人には無理である。

著者は飜譯についても一章を立ててゐる。飜譯の善し惡しは譯文の善し惡し、日本語の善し惡しに歸着する。?外の『即興詩人』、上田敏の『海潮音』、堀口大學の『月下の一群』を名譯と言ふのは、日本語が素晴しいからである。文語文による以前の欽定譯聖書等は、新しく口語譯されて、以前の誤譯が一掃されたと言ふことになつてゐるやうだが、文語譯の聖書は日本語として立派であつたし、壓倒的に良かつた。口語譯では、讀んでゐてありがたみが無い。さうすると、誤譯のある名譯があり得て、それで良いのかと言ふ反論が出さうだが、著者は、「それで良いのである」と、言い切つてゐる。「口語譯聖書は全篇擧げて誤譯」だと言ふことを福田恆存の『愚者の樂園』を引用して説明してゐる。「全く由々しき問題なので、かゝる改譯を思ひ立つた人々の根性を次囘に檢討してみることにする」とまで氏は書き、新聞のコラムなので、「次囘」で更に痛烈に批判した。
最終章に「文章心得あれこれ」として、まとめ及び他の文章指導書の紹介とコメントがある。以下に列擧する。「名文を讀め」丸谷才一、「ちょつと氣取つて書け」丸谷才一、「思つたとほりに書くな」丸谷才一、「あるがまゝに書くことは止めやう」清水幾太郎、「話すやうに書くな」井上ひさし、「緒論・本論・結論、といふ三分法にとらはれるな」丸谷才一、「起承轉結といふ分け方を念頭に置く方がよい」丸谷才一、「字面の視覺的效果に配慮せよ」井上ひさし、「透明度の高い文章が名文といふことはない」井上ひさし、「文は模倣してはならない」幸田露伴、「大家の文章を真似しやう」清水幾太郎、「新聞記事の文章を學んではならない」著者、「削り去るが宜い」幸田露伴、「當用漢字、新假名遣ひにとらはれるな」著者、「むやみに平假名は使ふな」著者、「『私はそれが好きだ』『敬意が表したい』とせよ」谷崎潤一郎、「書きたいことがないときは書くな」堺利彦、「私たちは詩人ではない」清水幾太郎。

文章指南の本は數あるが、これらの良いところ、間違つてゐるところを指摘してゐるこの本を讀めば、全て讀んだ氣になる。名文を書かうと氣負つた方でなくとも、多くの興味深い實例が紹介されてをり、一讀をお獎めする。《加藤忠郎》
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