2018年03月13日

小谷惠三著「『もののあはれ』を読み解く」(ミネルヴァ書房)を讀む

 「『源氏物語』の真実」と副題を附してあり。源氏物語の通説を悉く論破して、「紫式部の意圖はかかる所にはあらざりき」との所説を、人をして刮目(かつもく)せしむる緻密なる論理と推理もて解き明かせる力作なり。著者は苦學して高校教師となりたるが、源氏物語原文を始め、中世以來數多の源氏關係の「諸書」を廣く深く讀みたるの儀、豈(あに)驚愕せられであるべけん。

 「諸書」に對しては、齒に衣着せぬ批判を浴びする、實(げ)に痛快といふの外なし。「学者諸氏は古語の意味を自らの読解力によって明らかにするといふ努力をせず、安易に辞典の説明に従ってゐるのである」と挑戰状を叩き附くるあり。大野晉氏・丸谷才一氏の如き大家に對しても、舌鋒鋭くその過誤を咎め、翻つて、一條兼良「花鳥餘情」も北村季吟「源氏物語湖月抄」も敢へて尊崇するに該らずと言ふに躊躇なし。剩へ、サイデンステッカーの英譯にも從來の通説に引かれたる誤譯尠なからずと指摘す。
 現代語譯の中にては、圓地文子のみ之を是とし、與謝野晶子も谷崎潤一郎も瀬戸内寂聴も、讀解力の缺如ゆゑの誤譯甚だしと筆誅を加ふる、「恐れ入りました」と平伏するの外なし。
 然而(しかりしかうして)、如今世を席捲する素人のハッタリと同斷なるにはあらず。小谷氏自ら、「全篇を読み通す機会を与へられた」のは「(高校を)退職した翌年」と言ふなれど、爾來、如何にか源氏に打ち込み給ひけんと察せらるる作品なり。

 源氏の第二の正室・女三宮と通じて薫を生ませたる柏木。この人、朱雀院の五十の賀の席にて、源氏に「酔いにまぎれて皮肉をあびせられ」、「睨み殺された」といふが從來の定説なれど、小谷氏は何爲(なんすれぞ)さならんと反駁す。源氏は紫式部の理想の男性なれば、かかる賤しき復讐に出づることなかるべしとの由。自らの、かつて藤壺(父帝の女御・中宮)と通じたるを、父帝「知らず顔」にて通し給ひしを思ひ出して、「恋の山路」を「もどく(非難)」が如きはすまじと期し、聰明なる對應をしたれども、柏木動顛して已まず。煩悶して命を縮めたりき。然れども、小谷氏は「それは柏木の自責の思ひが自分を苦しめてゐるのであって、源氏の言葉が刺を含んでゐたのではない」とぞ仰せらるる。一には、我が力不足の所爲(せゐ)ならめど、かかる説得力ある論理に觸るれば、悉く小谷氏正鵠を射たるにあらずや、從來の源氏論は殘らず反故(ほご)の如きにあらずやとさへ思はるるに至る。「革命的なる源氏物語論」と評するも大過なからん。

 源氏物語の女性を對象に美人コンテストを催せば、一位は玉鬘、二位は右に述べたる女三宮ならんとさる評者の言へるを讀みたる記憶あり。玉鬘は才色兼備、女三宮は呆けたる白痴美の女性といふが通り相場なれど、小谷氏は相當なるページを割きて、「女三宮辯護論」を展開す。

 特に、女三宮の「琴の琴(きんのこと)」の名手たりしに氏は注目せらる。さは源氏が教授したるがゆゑにはあれど、「琴の琴」は習得の困難なるを以て知られたり。源氏物語にては、音樂の役割極めて重きを爲せど、源氏は女三宮の才、傑出したものありと見抜きたるなり。
 さらに、宮は優れたる歌を詠む。密通發覺して、落飾したる後の中秋の名月の夜に、左の如きをこそ詠みたれ。

  大方の秋をば憂しと知りにしを振り捨てがたき鈴虫の声

 紫式部もこの歌を「あてにおほどかなり」と評してあり(式部の作れるなれど)。
 この歌の從來の解釋にも著者は異を立つ。「諸書」は異口同音に、「秋」は「飽き」と掛詞にして、女三宮の(密通のゆゑに)源氏に疎まれたるを嘆きたりと言へれど、著者はさならずと云ふ。

 「学者たちはとにかく源氏は柏木との一件以來、女三宮を憎んでゐるとしか考へることが出来ないのであるが、『物語』の中には源氏の心情はそのやうには書かれてゐない」との説を唱へらるるなり。
 本書を讀むに、源氏と女三宮は終生優渥なる愛を通はせ合ひたるなり。この貴顯の女性は、紫の上と竝ぶ源氏の生涯の憧れの女性なりしにあらずやと思はる。また、紫式部も紫の上と竝びて、この女性に傾倒したるに相違なし。

 源氏薨去の後の「宇治十帖」の中にては、源氏の實の子ならざる薫、源氏の跡を襲ひたる第二代の理想の男性たり。これまた必定(ひつぢやう)、紫式部の女三宮に對する愛着の爲す所なるべし。
 かくのごとく、著者は、源氏・紫・女三宮・柏木、就中生靈と化したる六條御息所につきて、温かく肯定的なる分析を加ふ。そもそも、かくも大作にして名作なる物語を書きたるなり。登場人物を貴(あて)なる人格の持主に比定するなくんば、たうてい、作者自らストーリーに堪能して物語を成立せしむること能はざりけんと納得せらるる所以なり。安易なる性善説に溺れんとは思はねど、式部は男性と女性の理想像をこの物語の中に吹き込みたりといふべし。

 また「宇治十帖」の登場人物の中に、名高き惡役匂宮。この人の浮舟に對する衷情にも筆者は思ひ遣りある視線を向く。匂宮が初めて浮舟に會ひたる場面にて、浮舟は「むくつけくなりぬ」と原文にはあれど、これも諸書が「気味惡く」などと注釋を附するを指摘して、誠は「事態がよく理解出来ず、予見が出来ない」との謂ひに過ぎずと説く。

 巻末の「『源氏物語』余説」にては、往昔(いんじ)に遡りて源氏の評價を紹介す。儒者連は源氏物語を「専ラ好色ノ辞ヲ作リ、以テ姦淫ノ媒介(なかだち)ト為ス」(家田大峰)、或いは「伊勢・源氏は、言はば長恨歌・西廂記などの品にて、その冗長にして醜悪なる物ぞかし」(室鳩巣)などと言ひ、小谷氏も「儒学的見解」には辟易の辭を述ぶるも、儒者連の中にて、熊澤蕃山の「源氏外伝」のみは、「実に優れた『源氏物語』論を述べたもの」と評價してあり。「源氏物語は表には好色のことを書けども、実は好色のことに非ず」といふが蕃山の言葉なり。

 本書「まへがき」にて、源氏物語は「単なる色恋の物語」にはあらで、實人生における「感慨の幅を広げるためのトレーニングの練習場」なりと主張す。本朝の人、最も誇りとすべき文化遺産の頂點に立つ「源氏物語」の高貴なる精神を改めて確認せしむる絶妙の書なり。

 本書は、假名遣は歴史的假名遣を用ゐれど、漢字は新漢字なり。若き人にも讀むに勞少なからしめんとの配慮ならん。源氏を生半可に知る人(それがしもさなれど)なりとも、本書を讀むあらば、改めて源氏を繙(ひもと)かんと思ひ立つの段あるべし。
posted by 書評 at 17:32| Comment(0) | 高田友
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