2016年10月01日

今昔秀歌百撰 企畫:石井公一郎 編輯:市川浩 谷田貝常夫 發行:文字文化協會 chair@pcc.or.jp

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首
二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。(今昔秀歌百撰 織田多宇人

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。(今昔秀歌百撰 織田多宇人

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。
(織田多宇人)



posted by 書評 at 15:09| Comment(0) | 織田多宇人
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