2016年07月23日

「朗讀のための古訓古事記」、「朗讀のための萬葉集古義」岸本弘

 萬葉集の編者に擬せられる橘諸兄三十九世の孫橘曙覽(文化九年(一八一二)〜慶應四年(一八六八))は正月一日のことゝして
春に明けて先づ看る書も天地の始めの時と讀みいづるかな
と詠んだ。「天地の始めの時」は古事記冒頭の句である。我が先人達はこの日本現存最古の古典をはじめ種々の書物を好んで朗讀した。それを聞いた子や孫は又それらを音讀し、かくて我が國には多くの書物が傳へられて來た。明治になつてからでも、小學校から歸つた兒童達はその日に習つた國語讀本を音讀復習し、その聲が家々から聞えた。
敗戰後はこんな聲は殆ど耳にすることがなくなつた。原因はいろいろあらうが、その大きな理由には音讀して樂しくなるやうな文章に接しなくなつたことがある。言文一致の掛け聲の下、話すやうに書いただけの文章を音讀して果して樂しからうか。最近朗讀が見直され、專門家による朗讀の會が各地で盛況であるのは喜ばしいことであるが、それを聽いて、翌日自分も何か朗讀してみたいと思ふやうな文章が手近になければ、折角當日の感動もその場限りとなつてしまふ。
そのやうな現状に最適の朗讀用書籍がこの二册の本である。古訓古事記は本居宣長の、萬葉集古義は鹿持雅澄の、夫々原著を底本に、徹底した原文採録は、朗讀者を自然に日本語の原點たる獨特の情調に誘ひ、日本への囘歸を促す契機を提供して已まない。而もルビに至るまで歴史的假名遣で表記し、之を朗讀せしめてその效果を一層高めてゐることは、今日でも宮中の歌會始めの披講が御製を始め、すべての詠進歌を歴史的假名遣で表記して行はれてゐるのにも通じてゐる。
 その意味でも特に萬葉集が完全正字・正かなで印刷してあるのが(古事記は新漢字正かな)、Edicolorなる國産編輯ソフトを用ゐた著者自らの版下制作の結果であることに正統國語復活への希望の光を見出す者である。著者の長年に亙る金屬工學(冶金學)への貢獻を通しての活動が國民の文化たる國語への大きな助太刀となつてゐることに敬意を表したい。(市川浩)
 
posted by 書評 at 16:52| Comment(0) | 市川浩
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