2015年08月20日

「名文と惡文」 萩野貞樹著 (日本教文社)

この本自體も蓋し讀むべき「名文」の範疇に入るにやあらん
名文を書くつもりはないが、どんなことが書かれてゐるか興味があり、讀んでみた。冒頭、丸谷才一氏の『文章讀本』の紹介があり、「名文を讀め」、「ちよつと氣取つて書け」の二つに文章の極意は尽きると著者萩野貞樹は言ひ切つてをり、それを信じて、讀み進めたが、なるほど、その通りだつた。
當然のことながら、それでは讀むべき「名文」は何かと言ふ問題が浮上する。丸谷才一氏は、詰まらぬと思つたものは駄文で、ひつそり埋もれてゐる文章でも、敬服して陶醉すればそれは名文となる、と突き放した言ひ方をしてゐるが、人によつて、人生觀も知識も讀解力も違ふのだから、それが正解なのかもしれない。

その後、著者による名文に關する記述が續く。山本夏彦の「辛口エッセー」、起承轉結、平家物語に見られる列擧・畳みかけの醍醐味、「感情の投げ出し」だが心に滲みる金子光晴を悼んだ草野心平の弔辭など。
一章を設けて「文章と人柄」について書いてゐる。オスカー・ワイルドは男色法を犯して牢獄に投ぜられたが、名作『獄中記』を書いた。瀧澤馬琴は七十を過ぎて息子の妻女と肉慾の日々を過ごし、性甚だ狷介で傲慢で強情で、葛飾北齋や山東京傳等と常に不和を醸し爭つたが、『八犬傳』、『弓張月』等は傑作である。太宰治、谷崎潤一郎、志賀直哉、葛西善藏、三島由紀夫、倉橋由美子、阿部公房等にしても、心温かく、人柄圓滿、親しみ易く、近づき易く、清く正しく、明るく素直で正直で、眞つ直ぐでカラリとして、と言ふ人達であるとは到底思へない。しかしその文章はあくまで名品である。

冒頭、文章の極意の二つ目に「ちよつと氣取つて書け」とあったが、「氣取りといふこと」の章がある。「ちよつと氣取つて書け」とは、下手に氣取るな、わざとらしさは避けよと言ふことである。氣取るための材料が一切無くして妙に氣取つたのでは、出來たものが見るもおぞましいものになる。ちよつと氣取るためには古來の名文を徹底的に讀むことを當然の前提とする。多くの參考書類が口を揃へて「氣取るな」と言つてゐるのには大いに異議があるが、さうでも言はなければ仕方が無い實態があるのもまた確かで、「氣取るな」は、今のところ一應無難な助言と言ふことになる。醜怪で、惡しき氣取りの典型とも言ふべき、朝日新聞のインタビュー記事が紹介されてゐる。新聞記事特有の極端な名詞止め、極端な短文、極端な改行。これらは先輩記者に教へ込まれた作文法で、見事なまでにグロテスクな眞似の跡である。もうひとつ「傑作」が紹介されてゐる。例のサンゴ礁への落書き捏造のときの朝日新聞の記事だが、捏造記事の記念碑的存在は別として、思い入れたつぷりの感傷性、身振りの大きな氣取り、恥づかしげも無い正義感、惡を懲らす黄金バット、衆生教化の使命感、同胞を憐れみ嘆く殉教者、と言つた趣。この種の気味の惡い氣取り文は、新聞では何十年も前から常套となって殆ど變化の兆しも無い。
一方で、詠嘆の無い爽やかな鳥飼玖美子氏の書いた「岡田嘉子さんの日本語」と題するエッセーが紹介されてゐる。そこには批判はあるし、その批判は相當厳しいと言へるものだが、我一人高しとするやうな思い上がりは微塵もない。僅かな見聞から途方もない文明批評をでつち上げやうとするごとき氣負ひが無い。感傷が無い。芝居氣が無い。大きな身振りが無い。受け狙ひの「正義感」など無い。同感を強要するごとき圖々しさが無い。一口に言つて、下手な氣取りが全く無い。新聞美文の特徴が、薬にしたくても見當たらない。もうそれだけで大変な美質と言つてよいと、べた褒めである。「ないもの」を指摘しただけでは特徴を言つたことにはなるまいと、「あるもの」も列擧してゐる。嚴しい批判である。見事な説得力である。主人公への親愛感であり、素直な感受性である、と。著者のこの文章自體、列擧・畳みかけの醍醐味がある。なお、新聞美文に毒されてゐない新聞コラムの例として平成元年九月三十日の「産經抄」が紹介されてゐる。

殆どの文章指導書は、一つ一つの文を短く書けと言つてゐる。短文で簡潔に書けと言つてゐる。「長文は惡文である」と章まで立てて論じてゐる本もある。かう言ふ妙な事態になつたのは、良い文章の條件として分かり易さ、易しさ、簡潔さ、齒切れ良さと言つたものが強調されすぎたせいだらう。この種の指導法は實に完全な誤解の上に立つてをり、重要な事實を完全に見落としてゐる。つまり、短文にすれば簡潔で齒切れのよい文が出來ると言ふ誤解に立ち、短文は文を却つて感傷的な獨り善がりのものにしがちであることを見落としてゐる。短文の缺陷が露骨に出てゐる、平成二年三月二十五日の「天聲人語」が紹介されてゐる。この文章は小學校三年生用の教科書の一文あたりの平均字數より短く、その短さのせいで簡潔から遠ざかつてしまつてゐる。

著者は、戰後の現代假名遣ひの内閣告示の影響で、出版社が歴史的假名遣ひで書かれた作品をやたら現代假名遣ひに改竄してしまふ弊害を述べてゐる。金田一京助博士が戰前に著した國語に關する著書が現代假名遣ひに書き換へられてしまつたため、日本語として全く意味が通じない珍妙なものになつてしまつた例が擧げられてゐる。出版社側の改竄の根拠は、昭和二十一年十一月の内閣告示「現代かなづかい」の「まえがき」にあると思はれる。

一.このかなづかいは、大体、現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したものである。
一.このかなづかいは、主として現代文のうち口語体のものに適用する。
 一.原文のかなづかいによる必要のあるもの、またはこれを変更しがたいものは除く。
(原文のママ)
出版社は「原文の假名遣ひに從ふ必要のあるものではない」と判斷し、「變更しがたいものではない」と判斷したのだらう。しかし、「まえがき」にある「原文」は現代假名遣ひ施行後に新たに書かれる口語文を指すのであつて、既に書かれ印刷出版されてゐる?外、漱石、芥川、また橋本、柳田、金田一の類を指すものではないと解釋すべきだらう。この後、出版社の無原則な書き換へ方針、書き換へ擔當者の見識の無さ等で、改竄された事例がいろいろ紹介されてゐる。書き換へ出版が盛大に行はれてゐるが、原文は高價な全集ものなどにはいくつか殘つてゐるが、文庫で讀まうとしても先づは絶望的である。正しさを追求しやうと思つても、貧乏人には無理である。

著者は飜譯についても一章を立ててゐる。飜譯の善し惡しは譯文の善し惡し、日本語の善し惡しに歸着する。?外の『即興詩人』、上田敏の『海潮音』、堀口大學の『月下の一群』を名譯と言ふのは、日本語が素晴しいからである。文語文による以前の欽定譯聖書等は、新しく口語譯されて、以前の誤譯が一掃されたと言ふことになつてゐるやうだが、文語譯の聖書は日本語として立派であつたし、壓倒的に良かつた。口語譯では、讀んでゐてありがたみが無い。さうすると、誤譯のある名譯があり得て、それで良いのかと言ふ反論が出さうだが、著者は、「それで良いのである」と、言い切つてゐる。「口語譯聖書は全篇擧げて誤譯」だと言ふことを福田恆存の『愚者の樂園』を引用して説明してゐる。「全く由々しき問題なので、かゝる改譯を思ひ立つた人々の根性を次囘に檢討してみることにする」とまで氏は書き、新聞のコラムなので、「次囘」で更に痛烈に批判した。
最終章に「文章心得あれこれ」として、まとめ及び他の文章指導書の紹介とコメントがある。以下に列擧する。「名文を讀め」丸谷才一、「ちょつと氣取つて書け」丸谷才一、「思つたとほりに書くな」丸谷才一、「あるがまゝに書くことは止めやう」清水幾太郎、「話すやうに書くな」井上ひさし、「緒論・本論・結論、といふ三分法にとらはれるな」丸谷才一、「起承轉結といふ分け方を念頭に置く方がよい」丸谷才一、「字面の視覺的效果に配慮せよ」井上ひさし、「透明度の高い文章が名文といふことはない」井上ひさし、「文は模倣してはならない」幸田露伴、「大家の文章を真似しやう」清水幾太郎、「新聞記事の文章を學んではならない」著者、「削り去るが宜い」幸田露伴、「當用漢字、新假名遣ひにとらはれるな」著者、「むやみに平假名は使ふな」著者、「『私はそれが好きだ』『敬意が表したい』とせよ」谷崎潤一郎、「書きたいことがないときは書くな」堺利彦、「私たちは詩人ではない」清水幾太郎。

文章指南の本は數あるが、これらの良いところ、間違つてゐるところを指摘してゐるこの本を讀めば、全て讀んだ氣になる。名文を書かうと氣負つた方でなくとも、多くの興味深い實例が紹介されてをり、一讀をお獎めする。《加藤忠郎》
posted by 書評 at 00:00| Comment(0) | 加藤忠郎
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