2017年12月22日

書評 [いろは歌 大和言葉の奇蹟―囲碁いろは百吟] 電子書籍版(kinoppy,kindle,iBooks,kobo にて購入可


大和言葉の魅力を十分に樂しめる名著               常任理事 加藤忠郎
「色は匂へど散りぬるを…」で知られる「いろは歌」は、日本語の四十七文字を重複することなく組み入れた七五調の歌として、千年以上の長きにわたり世界に冠たる日本の文化財であり續けた。この四十七文字歌を新しく作らうとした人は、千年以上の間に三十人ほどゐたが、本書の著者中山典之氏は圍碁のプロ棋士ながら、驚くべきことに生涯に千首以上ものいろは歌を作つた。

本書は平成11年11月に發行された氏の著書『圍爐端歌百吟』を復刻するとともに、平成18年5月13日 、國語問題協議會の春季講演會で行はれた『實踐「いろは歌」一千首』と題する氏の講演を収載したものである。國語に深い關心があれば、學識豐かな著者の「いろは歌」に魅せられるだらうし、また圍碁好きの方は「圍碁いろは」が樂しめるであらう。さらに裏表紙にあるシチヤウ(あたりの連續で最後には石をとられてしまふ)を使つて最終圖形を描く著者創案の「珍瓏(ちんらふ):ハート型」には誰もが感嘆するだらう。

本書収載の國語問題協議會での講演では、氏は宇野精一先生(當時の同協議會會長、國語學者)の話を紹介し、その話に出て來たイギリスのブリタニカ百科事典のアルファベットの項目について語つてゐる。世界に百の國があれば百の言語がある。民族が百あれば百のアルファベットがある。しかし、そのアルファベットが美しい歌で綴られてゐるのは日本だけであると。「いろは歌」といふのは世界に冠たる日本の財産である。イギリスにも「ABCD、EFG」という歌は有るには有るが、單なるメロディー。日本の方は、

色は匂(にほ)へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
有爲(うゐ)の奥山けふ越えて 淺き夢みじ醉(ゑ)ひもせず

と、立派な歌になつてゐる。氏はさらに宇野先生の話も交へながら、GHQが「ゐ」や「ゑ」を死刑にしてしまつたから「いろは歌」が廃れてしまつたこと、「いろは歌」は弘法大師作と錯覚しているが今から千年ぐらい前の詠み入知らずの名歌であること、宇野先生が東大生に「いろは歌」を書かせたところ完全に書けた人がたった三分の一だったこと等語つてゐる。「いろは歌」は全ての假名を一度しか使はずに、意味のある歌になつてゐて、しかも七五調になつてゐことを要求されるので、これを作るのは大變に難しい。講演の中で「いろは歌」を作る祕訣を二三擧げてゐる。一番目は和歌俳句、そういふ日本古來の七五調に親しむべきこと、これは「いろは歌」を作るための絶對條件とのこと。二番目は漢字に親しんで漢文を學ぶこと。漢文といふのはボキャブラリーが豐富で、日本語で一瞬のうちに凝縮したやうな素晴しい表現がある。講演の内容は多岐にわたつてゐる。

中山典之氏は日本棋院東京本院所属のプロ棋士で昭和七年生れの長野縣上田市出身。鈴木五良八段に入門し、平成4年に六段に昇進。アマチュア出身で入段が遅く、タイトル戰などには縁がなかつたが、文才に長け、『実録囲碁講談』『囲碁の世界』など圍碁界に關する多數の著作がある。平成22年2月、腦梗塞により77歳で死去。七段を追贈されてゐる。

本書の構成は序章、第一章、第二章、第三章、第四章(『實踐「いろは歌」一千首』講演録)からなり、序章では「いろは歌」の蘊蓄を大いに語つてゐる。例へば「いろは歌」よりも古い時代にも四十七音または四十八音の歌を試みた例もあり、『阿女都千詞歌』は「あめ、つち、ほし、・・・・」と四十八音全て備えてゐるが歌といふより用語集である。これには「え」の文字が二度出てくるが、あ行のEとや行のYEであり、四十七字歌の「いろは歌」より古い證明になる、等と著者の造詣の深さが分かる。弘法太師が生きてゐた頃の古書によると幼兒が「あめつちのことば」を手習ひしたとは書いてあつても「いろは歌」を手習ひしたとは一度も書いてなく、「いろは歌」は弘法太師の作に非ずとの證明になる。明治になつて黒岩涙香が主宰する新聞社「萬朝報」が公募して最優秀になつた作品も有名だが、著者は「いろは歌」に比べて名歌とは言へないと言ふ。

鷄(とり)啼(な)く聲(こゑ)す 夢さませ 見よ明け渡る 東(ひんがし)を
空色榮(は)えて 沖つ邊(へ)に 帆船(ほふね)群れ居(ゐ)ぬ 靄(もや)の中(うち)

第一章では圍碁のことを詠んだ「同じ文字を一度しか使はない」四十八字歌を四十八首載せてゐる。しかも最初の文字が同じものがなくいろは順にならべてある。著者はこの種の歌を数年の間に既に一千餘首作つてゐて、その中から百首選んで載せてゐる。歌の下段に歌に因んだ短い隨筆も載せてゐるのが樂しい。評者も圍碁をいささか嗜むので、興味深く讀めた。例へば碁を打つ人には呆け老人がゐないので呆け對策になるとか、「二目の頭 見ずはねよ」とは有名な圍碁の格言だが念には念を入れて十秒ほど考へてから打つ等。第二章にも更に四十八首の圍碁いろは歌(二)が掲載されてゐる。

第三章には圍碁以外の四十八字歌が掲載されてゐる。第九十七番の「新いろは歌」は名作だ。平安の「いろは歌」が莊重難解とすれば、この「平成いろは歌」は輕快平明だ。「この歌が古歌に優つてゐるのは文法上の誤りがないことだ」と著者は自慢してゐる。因みに「いろは歌」の「わかよたれそ」の「そ」は文法的に間違っていて、正しくは「か」でなければならないが、格調の高さと流れるやうな名調子が缺點を補つてゐる。

色は空(くう)なり すべて無爲(むゐ) 常に非(あら)ざる 世を侘(わ)びぬ
み佛まかせ 稚兒(ちご)の夢 重き縁(えん)知れ 誰(た)そや醉(ゑ)ふ

第百番の「擬 琵琶湖周航歌」も秀逸である。三高の寮歌を想いつゝ作つた歌で、三高の卒業生の集りで講演した時に披露したところOBたちは大喜びしたとのこと。

我も海より さすらひて 艪(ろ)を任せ居(ゐ)ぬ 沖つ潮(しほ)
笛の音(ね)夢幻(むげん) 誰(た)そや漕(こ)ぐ 花散るゆゑに 雨いとへ



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2017年01月14日

[和字正濫鈔]電子書籍版(kinoppy,kindle,iBooks,kobo にて購入可

歴史的假名遣ひの成立に大きな影響を與へた契沖の『和字正濫鈔』に解説を加えた有益な書籍, 2016/10/3

江戸時代中期の僧契沖が著した『和字正濫鈔』は當時主流となつてゐた「定家假名遣ひ」の矛盾に氣附き、歴史的に正しい假名遣ひの例を『萬葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾ひ、これを分類したものである。これに準據した表記法は「契沖假名遣ひ」と呼ばれ、後世の歴史的假名遣ひの成立に大きな影響を與へた。本書は契沖の原本の畫像入りの飜刻テキストと卷末の解説とからなつてをり、「歴史的假名遣ひ」の研究者やこの分野に興味のある者にとつては有益な書籍である。

契冲は摂津國川辺郡尼崎(現在の兵庫縣尼崎市北城内)で生れた。幼くして摂津國東成郡の妙法寺の?定(かいぢやう)に學んだ後、高野山で阿闍梨の位を得る。ついで摂津國西成郡の曼陀羅院の住持となり、その間下河辺長流と交流し學問的な示唆を受けるが、寺務を厭ひ突然寺を出奔し、長谷寺、室生寺、吉野、葛城など畿内を遍歴して高野山に戻る。晩年は摂津國東成郡の円珠庵で過ごした。没後の明治24年(1891年)、正四位を追贈された。著書は『和字正濫鈔』以外に、徳川光圀から委嘱を受けた『萬葉代匠記』(『萬葉集』注釈書。1690年)をはじめ、『厚顔抄』、『古今餘材抄』、『勢語臆断』、『源註拾遺』、『百人一首改觀抄』、など數多く、その學籍は實證的學問法を確立して國學の發展に寄與するところ大であつた。

『和字正濫鈔』は五卷からなり、卷一では、最初に定家の假名遣ひを「混亂猶おほく」と退け、文獻を引用して自説を推す「引證」が契冲の假名遣ひ研究の「キーワード」であることを説明してゐる。その他、梵字のこと、五十音圖、いろは字體、いろは略註などが書かれてゐる。卷二から卷五は個々の言葉の辭書のやうな解説文である。定家の假名遣ひの批判の例では、「鬼 おに 和名に隱の音といへり。をにと書へからす」といふのや「通 とほる 日本書紀 古事記 萬葉 古語拾遺等一同。とをると書へからす。蟻通神の前にて 有と星をハと貫之よまる」とある。

密教(眞言宗、天台宗)を奉じる者にとっては、悉曇、サンスクリット、梵字の勉學が必須である。五十音圖を作つたのは契冲が嚆矢だが、五十音圖は梵學から出たもので、その五十音圖が世界中の音韻を網羅する普遍的なものと思ひ込んでゐる。印度では歴史認識が薄く、それもあつてサンスクリットでは、何千年も言葉は變はらないとされてゐる。契冲も太古の日本語が正しいのであつて、今の言葉が濫れてゐると信じてゐた節がある。「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」は萬葉以前は違ふものであつたから、そこに戻るべきだと考へた。江戸初期では發音は同じになつてゐたにしてもである。

卷二から卷五は辭書ではあるが、評者のやうな素人でも適當に興味のある言葉を選んで拾ひ讀みしてみるのも面白い。尤も、先づ卷末の解説を讀んでから本文を讀むことをお奬めする。 加藤忠郎
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2016年10月01日

今昔秀歌百撰 企畫:石井公一郎 編輯:市川浩 谷田貝常夫 發行:文字文化協會 chair@pcc.or.jp

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首
二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。(今昔秀歌百撰 織田多宇人

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。(今昔秀歌百撰 織田多宇人

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。
(織田多宇人)



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