2017年01月14日

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歴史的假名遣ひの成立に大きな影響を與へた契沖の『和字正濫鈔』に解説を加えた有益な書籍, 2016/10/3

江戸時代中期の僧契沖が著した『和字正濫鈔』は當時主流となつてゐた「定家假名遣ひ」の矛盾に氣附き、歴史的に正しい假名遣ひの例を『萬葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾ひ、これを分類したものである。これに準據した表記法は「契沖假名遣ひ」と呼ばれ、後世の歴史的假名遣ひの成立に大きな影響を與へた。本書は契沖の原本の畫像入りの飜刻テキストと卷末の解説とからなつてをり、「歴史的假名遣ひ」の研究者やこの分野に興味のある者にとつては有益な書籍である。

契冲は摂津國川辺郡尼崎(現在の兵庫縣尼崎市北城内)で生れた。幼くして摂津國東成郡の妙法寺の?定(かいぢやう)に學んだ後、高野山で阿闍梨の位を得る。ついで摂津國西成郡の曼陀羅院の住持となり、その間下河辺長流と交流し學問的な示唆を受けるが、寺務を厭ひ突然寺を出奔し、長谷寺、室生寺、吉野、葛城など畿内を遍歴して高野山に戻る。晩年は摂津國東成郡の円珠庵で過ごした。没後の明治24年(1891年)、正四位を追贈された。著書は『和字正濫鈔』以外に、徳川光圀から委嘱を受けた『萬葉代匠記』(『萬葉集』注釈書。1690年)をはじめ、『厚顔抄』、『古今餘材抄』、『勢語臆断』、『源註拾遺』、『百人一首改觀抄』、など數多く、その學籍は實證的學問法を確立して國學の發展に寄與するところ大であつた。

『和字正濫鈔』は五卷からなり、卷一では、最初に定家の假名遣ひを「混亂猶おほく」と退け、文獻を引用して自説を推す「引證」が契冲の假名遣ひ研究の「キーワード」であることを説明してゐる。その他、梵字のこと、五十音圖、いろは字體、いろは略註などが書かれてゐる。卷二から卷五は個々の言葉の辭書のやうな解説文である。定家の假名遣ひの批判の例では、「鬼 おに 和名に隱の音といへり。をにと書へからす」といふのや「通 とほる 日本書紀 古事記 萬葉 古語拾遺等一同。とをると書へからす。蟻通神の前にて 有と星をハと貫之よまる」とある。

密教(眞言宗、天台宗)を奉じる者にとっては、悉曇、サンスクリット、梵字の勉學が必須である。五十音圖を作つたのは契冲が嚆矢だが、五十音圖は梵學から出たもので、その五十音圖が世界中の音韻を網羅する普遍的なものと思ひ込んでゐる。印度では歴史認識が薄く、それもあつてサンスクリットでは、何千年も言葉は變はらないとされてゐる。契冲も太古の日本語が正しいのであつて、今の言葉が濫れてゐると信じてゐた節がある。「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」は萬葉以前は違ふものであつたから、そこに戻るべきだと考へた。江戸初期では發音は同じになつてゐたにしてもである。

卷二から卷五は辭書ではあるが、評者のやうな素人でも適當に興味のある言葉を選んで拾ひ讀みしてみるのも面白い。尤も、先づ卷末の解説を讀んでから本文を讀むことをお奬めする。 加藤忠郎
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2016年10月01日

今昔秀歌百撰 企畫:石井公一郎 編輯:市川浩 谷田貝常夫 發行:文字文化協會 chair@pcc.or.jp

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首
二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。(今昔秀歌百撰 織田多宇人

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。(今昔秀歌百撰 織田多宇人

和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文が自由で多彩で充分樂しめる百人一首

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。
(織田多宇人)



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2016年09月01日

「日本語が亡びるとき」水村美苗著 筑摩書房

著者は言語を『普遍語』、『國語』、『現地語』と言ふ三階層で捉へてゐる。『普遍語』は英語の"universal language"に該當し、日本語では「世界語」と言ふ表現が落ち着く。『國語』は、英語の"national language"に該當する。「國民國家の國民が自分達の言葉だと思つてゐる言葉」で、人々が巷で使ふ『現地語』"local language"が、高級な諸々の價値を擔ふ『普遍語』の翻譯を通じて研ぎ澄まされ、知的・倫理的・美的な面で『普遍語』と同じレベルで機能するやうになつたものである。
我々が無意識に使つてゐる『現地語』である「日本語」は、『國語』でもある。著者は、『普遍語』としての英語の擡頭(言語學的には何の必然性もないが、英米の力と、そして、インターネットの普及期に頭一つリードしていた偶然による)の時代に、「日本語」は『國語』としての側面が大いなる危機に直面してゐると警告し、憂へてゐる。
「英語の時代」になつて、英語教育に對する方針は原理的には@『國語』を英語にしてしまふことA國民の全員が、バイリンガルになるのを目指すことB國民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと、の三つがある。日本が必要としているのは、世界に向つて、一人の日本人として、英語で意味のある發言が出來る人材である。交渉の場で、堂々と意見を英語で述べ、意地惡な質問には諧謔を交へて切り返せる人材である。著者は當然のこととしてBを推す。
文部省は明治の頃から音韻文字の採用を基本方針として、?字を排除し、假名文字にするか、ローマ字にするか得失を調査させてゐた。良識ある國語学者や文學者が反對し、?字假名交じり文に慣れた國民も眞劒に受け取らなかった。所が、戰後GHQの占領下で、?字の全面的な廢止が政府決定され、實際に廢止されるまでの、當面使用される?字として一八五〇字の「当用漢字表」が定められ、教育、公文書、新聞等のマスメディアで使はれる字の數が制限されるようになつた。このやうな動きに反對する聲が漸く出て來たのは、敗戰から十數年經つてからである。
昭和三十三年(一九五八年)には、後に名著とされるsc恆存の「私の國語教室」が連載され、昭和四十年(一九六五年)には、國語審議會會長が、初めて、日本語の表記方法は「漢字假名交じり文」であることを前提として審議を進めることを記者會見で發表する。漢字が殘つたことは「表音主義者」の敗北を意味した譯ではなく、「傳統的かなづかひ」を「表音式かなづかひ」に改めると言ふ小さな勝利を彼等は収めた。
sc恆存の「私の國語教室」には、「表音主義」が日本語にとつて合理性を缺くものであり、「表音式かなづかひ」が、いかに日本語を混亂させたかが語られてゐる。
「私の國語教室」の最後の一言、「なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか」が、胸に迫る。sc恆存のような人が嘆くのは、改惡の根底にある「表音主義」が、究極的には、文化そのものの否定につながるからである。
加藤 忠郎(かとう ただを) (公財)日本發明振興協會副理事長
posted by 書評 at 08:15| Comment(0) | 加藤忠郎